タンビュザヤの世界平和のモニュメントの除幕式に同行させて頂きました。

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泰緬鉄道のミャンマー側出発駅、タンビュザヤの泰緬鉄道博物館前に建立された、世界平和のモニュメントの除幕式に同行させて頂きました。

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モニュメントは元ヤンゴン日本人学校の置田校長先生と岐阜市の願成寺の住職を中心になった賛同者らが、お寺のお布施と置田校長の退職金を利用して白い大理石の発掘から平和の塔を建立、置田校長が個人的にすべてご準備されました。

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体感温度43℃の中、式典は住職のお経の後、置田校長先生のスピーチ。その後、泰緬鉄道建設に関わられ、戦後何度も来緬し慰霊を行われた木下さんからの戦時品を寄贈。今日の泰緬鉄道に対するミャンマー側の理解は木下さんが作られたといっても過言ではないそうです。

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戦地から絵手紙を日本に送られていた、後藤一味さんの絵手紙を拡大したものも寄贈されました(石塚まみさん寄贈)。参列されたミャンマーの関係者の方も、戦時中に書かれた平和を願う後藤さんの絵に驚いておられました。これらは博物館に展示される予定です。

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その後ミャンマー側からは、モン族の伝統舞踏が演じられました。

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式典には正月明けの初日、最も忙しい日にも関わらず新しく就任したモン州首相も参列(前日夜に参加表明)。

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ミャンマーの人は戦争について、あの時代だったから仕方なかった。と話す人が多くおられます。
輪廻転生を信じる仏教徒の方は、今生だけを自分の人生と捉えているのではなく、前世、来生も含めての自分の人生と理解しているのが一因のようです。泰緬鉄道で犠牲になった人は、もしかしたら前世は逆の立場だったのかもしれない。泰緬鉄道で加害者になった人は、来生は被害者になるだろう。うちの社員らと話しているとそういう理解で、日本軍が行ったこともある程度受け入れているように感じます。

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 平和の塔の除幕式では、置田先生から、これは新たな出発式であるという挨拶がありました。「今回は平和の塔を建てるのが目的ではなく、平和の教え自他平等の精神を広めるために第一歩だったと感じています。(置田校長)」「自と他は一枚の紙の表裏のように、常に分けることのできない一つ、絶対に分けてはならない一つ」と塔には記載されています。
まさに、カンチャナブリでも感じた、加害者と被害者は表裏一体。泰緬鉄道はもともとイギリスが作ろうとした。戦後、日本兵はシベリア鉄道建設に連れていかれた。等々。どの時代で切り取るかで、加害者と被害者が変わってきます。
ミャンマー的な発想は、まさしく平和的な発想だと感心しました。

そんな発想が、今年1月に完成された泰緬鉄道博物館にも現れています。泰緬鉄道建設の説明は、「ミャンマー繁栄のために参加した」から始まります。泰緬鉄道博物館のオープニング式典には、鉄道建設に関わった木下さんを日本人としてただ一人、ミャンマー政府が招待しました。戦後何度も慰霊に来られたご尽力につきるのですが、それを政府として認めたことこともすごいことだと思います。

<映像はこちら>

https://www.facebook.com/488909774619574/videos/521523598024858/?video_source=pages_finch_main_video
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もちろん泰緬鉄道建設について、納得できない人が今も多くおられると思います。最難関だったと言われるヘルファイア・パス(HellFire Pass)を訪れたときは、まだ成仏せずに掘り続ける人がいるようにも感じましたし、ミャンマー国内でも日本兵の霊が出るのは今も日常茶飯事の出来事です。

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「被災地、タクシーに乗る幽霊 東北学院大生が卒論に」(朝日新聞)http://digital.asahi.com/articles/ASHDY737QHDYUNHB00B.html という記事を思いだしました。「死んだと納得したら霊は消えていた」とあります。

人生は時代によって様々なことが起こります。特に戦争は個人ではどうしようもないこともあります。しかし、起きてしまった出来事を受け入れ納得する。それが来生にもつながり平和につながる。それを理解するために、この10日間があったのかなぁ。とそんなことを感じながら、夜中ヤンゴンに戻る車の中で考えていました。

ミャンマー。いろいろありますが、やはりこの国の国民はすごいです。

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追伸:泰緬鉄道博物館は写真が数点並べていますが、展示品が圧倒的に少ない状況です。ただ、資料は、連合軍側からのもの、日本軍からのもの、ミャンマー側か らのもの とそれぞれが一緒に展示されています。日本政府としてインフラ整備にODAを拠出するのもいいですが、資金の一部をこの施設 のために協力してもらえれば、より発展的な日緬友好につながるのではないでしょうか。

泰緬鉄道博物館(The Thailand-Burma Railway Centre)の1日歴史ツアーに参加して感じたこと。

カンチャナブリ市内にある泰緬鉄道博物館の1日歴史ツアーに参加しました。朝8時半にホテルに迎えに来てもらい、まずは泰緬鉄道博物館(The Thailand-Burma Railway Center)をじっくり見学。

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泰緬鉄道博物館創設当時から働くマネージャーが専属ガイドとして特別に終日案内してくれました。彼女はほとんどガイドとして一般客を案内しないそうですが、突然指示され本日案内することになったそうです。

タイ人・日本人・ミャンマー人のこのグループらしく、それぞれの国の立場での意見があり、認識の仕方 (教えられ方)も違っていて、中身の濃い1日となりました。

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その後、収容所跡や当時の駅跡、どのように捕虜が現場に送られていったのか等、普通のツアーとは全く違い、彼女が持参した昔の貴重な資料を見ながら、彼女自身が多くの証言者からヒアリングした内容などとともに詳細説明してくれました。

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朝8時半からスタートし、終わったのは18時過ぎ。当地を訪れる方には是非お勧めのツアーです。

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いくつか回った後、旧泰緬鉄道のナムトク線に乗車。

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ハイライトのティンバートレッスル橋(アルヒル桟道橋)、全長約300mS字カーブの木造橋は2週間で作り上げたということには驚きました。

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ランチ後はヘルファイアー・パス博物館(サイヨーク)。

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Hellfire Pass では、竹の松明で毎日18時間労働し切り立った崖を素手で切り開いた痕がいくつも残されています。

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慰霊碑の先は木の橋(今は朽ちてありません)があり、その先にずっと続いていきます。泰緬鉄道の8つの大きな橋のうち、タイ側は1か所、ミャンマー側は7か所。ということは、ミャンマー側はすごい状況であったことが想像できます。

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博物館には泰緬鉄道に関わった国別強制労働者数がありましたが、イギリス人、オーストラリア人、オランダ人、アメリカ人らが61,800人参加、うち12,619人死亡【POW/捕虜】、インドネシア人、マレーシア人、ベトナム人、ミャンマー人などアジア人【SLAVE/奴隷】が20万人参加、うち8万5千人が死亡。(ミャンマー人は18万人参加し4万人死亡と記述)
にも関わらず、犠牲になったアジアの人々の墓地や慰霊碑だけでなく、記載やデータもほとんどない現状。しかも、アジアの人々を区別して【奴隷】と記載。

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タイ人のマネージャーが長年この仕事を続けているのも、タイではこの史実を学校では詳しく教えておらず、機関車や橋を背景に写真を撮ったりしているだけなのは悲しく思い、皆に知ってほしいから働いていると話していました。

ミャンマーでも詳しくは学校で教えていないそうです。ミャンマー人観光客が正月休暇中ということもあって多く訪れており、記念撮影をしていましたが、この建設に関わった全人数の約60%、亡くなった人の40%がミャンマー人だったということを理解しているのでしょうか。16ヶ月で10万人が亡くなったということは、毎日200名以上亡くなっていた計算です。

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泰緬鉄道は、もともとイギリスが植民地時代に敷設しようとした路線。当時、もし労働者が確保でき、建設工事が始まっていたら今の歴史とは全く逆の立場。

日本人はというと、戦後日本人捕虜ら日本人107万人はシベリアに輸送され鉄道建設や森林伐採、炭鉱労働で約34万人が犠牲になりました。

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ミャンマーの人々は日本軍が統治していた時代のことを日本よりは詳しく教えており、授業で勉強したときは、日本人は戦時中どれだけミャンマーの人に対して悪行行ったひどい人だと感じる人が多いようです。ただ、戦後の日本による支援や日本人と直接触れたことによって、歴史も受け入れた上で多くの人が親日家になるそうです。

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映画『レイルウェイ 運命の旅路』をみました。実際にタイの捕虜収容所で、憲兵隊の通訳を担当していた永瀬隆さんという方、恥ずかしながら知らなかったのでネットで調べてみました。

「永瀬さんは旧日本軍への憎しみを持つ元捕虜のの中、何度もの英国の退役軍人会などに手紙を書き続け、76年10月。23人の元捕虜がクワイ河のかかる橋の上に集まった。和解に向けた第一歩は元捕虜の批判も巻き起こした。「旧日本軍と和解するのは裏切り者の行いだ」。旧日本軍の間にも永瀬さんの活動への反発は強かった。それでも永瀬さんは地道に元捕虜たちとの和解活動を続けていく。「死の泰麺鉄道」戦争の真実と和解(3)巡礼:http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20140112-00031506/

映画『レイルウェイ 運命の旅路』では、お互いが当時を振り返り、そしてその事実を知り理解し、「和解に尽力してきたあなたは誰よりも勇気がある。カンチャナブリーで起こったことを忘れはしない、でも、あなたのことは心から赦そう、憎しみはいつか終わらさなければ」。二人はよき友となり、2011年、永瀬の死まで友情は続いた。2012年にエリックが亡くなり、パットが見守った。と終わります。

ここに大切なヒントがあると思います。何事も人それぞれに、価値観・歴史観が異なるので、歴史の伝え方も違う。それぞれ一方の主張だけだといつまでも平行線になってしまう。この泰緬鉄道博物館も同じ。70年経った今もヘルファイアー・パスには日本軍に対し憎悪を憎しをもった人々が残されているように感じました。当時を振り返りお互いが理解しあえる、未来につながる機会が必要です。

今月から日本兵の遺骨収集が再開されたから今こそ、どうして人々は死んでいったのか。そしてその人達に関わっていた人達はどうだったのか。相手国(連合国側)はどうだったのか。
ティラワに巨額な支援をする前に、日本は戦争の史実を日本人用だけのものではなく、現地の人にも、未来を支える日本人にも、イギリスやインドの人にも、史実を恐れずきちん伝える博物館などを建設すべきだと感じます。

例えば、ミャンマー政府、日本政府、インド政府、イギリス政府、ミャンマー民間、日本民間、イギリス民間、インド民間、それぞれが関わり納得でくるような博物館があればいいのかもしれな。そういう歴史博物館を作ることも重要な支援ではないでしょうか。

ODA関係プロジェクトで駐在されていた橋本さんのエッセイ


先月、日本政府は対ミャンマー(ビルマ)ODAの再開の検討を表明しました。ODA(政府開発援助)はここミャンマーが世界最初の地。
今回、1970年代後半に日系商社駐在員として、ODA関係プロジェクトで駐在されていた橋本さんの貴重なエッセイを掲載させて頂くことになりました。
ミャンマーに訪れる日本人のみならず、多くの日本人に読んで頂きたいエッセイです。
是非ご一読ください。
「サンペイさん往訪」
「日本人戦没者慰霊碑再訪」
「もうひとつのビルマの竪琴」
~橋本裕一さんプロフィール~
1947年(昭和22年)生まれ。現在、大阪在住。
1970年代後半に日系商社駐在員として、ODA関係プロジェクトにてPyu(旧名Prome)市対岸のSinde地区に駐在。
その後、1980年代半ばから後半と、1990年代半ばにも首都に駐在。合計3回、通算10年余りの駐在経験あり。
1988年の民主化騒動を肌で体験、また国家と首都の名前が変更されたのも経験した。

ヤンゴン日本人墓地での納骨式


昨年永眠された稲田 清さん(元 安兵団野砲兵第53連隊第7中隊所属)の納骨式にお邪魔しました。
生前、稲田さんは「自分の人生はビルマで終わっている。生きて帰れた第二の人生は慰霊に尽くしたい。」と話されていたそうです。
戦後ビルマで初めて行われた日緬政府合同遺骨収集団に加わり、その後毎年1~2回慰霊に来緬されておられました。
戦時中、自らの腕の中で亡くなった戦友や自ら遺骨を埋めた戦友の場所を記憶し、戦後それらの場所を回り、慰霊を行っていたそうです。また、渡航許可が許す限りミャンマー全国を回られていたそうです。
娘の幸子さんに残された遺言は、「自分の人生はビルマで終わっている。死んだら分骨してビルマに埋葬して欲しい」とのことで、今回、ヤンゴン日本人墓地にお墓が作られ毎年訪れていたこの季節に幸子さん、そして孫にあたるその息子さんの憲佑さんが参列して納骨式が行われました。
遺言には日本人墓地に埋葬して欲しいとは語っておらず、シッタン河に流して散骨し命を全うしたい。と伝えていたそうですが、いつもお世話になっていたミャンマーの方々が今回日本人墓地にお墓を作る努力をされたそうです。
「ミャンマーの方々の暖かさ、人間の深さ、生前での父だけでなく、亡くなったにも関わらず、まだその思いを継いでくれ感謝でいっぱい。父も安心して眠れます」と幸子さんは語っておられました。
「ビルマの人々は戦時中自らの食料も不足しているのにも関わらず、日本兵に米を自ら持ってきてくれたり本当に親切にしてくれた。」父親である稲田さんから、幼い頃からビルマ戦の話をよく聞き育ったそうです。また、辛い事、悲しいことよりも、ビルマの人々のやさしさの話をよく話されていたそうです。
そのような経験から、稲田さんは戦後、戦友への慰霊だけでなく、敵であった連合国の人々、そしてビルマの人々など皆に対して慰霊を行っておられたそうで、タウンダーに自らパゴダを建設、学校などに寄付をしてこられています。
3回目のミャンマー訪問となった孫の憲佑さんは今年高校を卒業して春から大学生。「ビルマの人の暖かさなどは祖父を通して見て聞いてよく知っています。母と同じく実際の戦争を知りませんが、この地に来ると祖父が銃をもって戦っていた風景が想像でき、戦争を身近に感じることができます。これからは自分達で祖父の意思を引き継いでいきたいです。」
と語ってくれました。
稲田 清さんのご冥福お祈り致します。

ビルマ戦で亡くなられた方々の遺骨を早く日本へ帰してあげて下さい。


GENKYの視覚障害者スタッフが自ら稼いだお金を使って僧侶を店にお呼びしお経をあげてもらいご馳走しました。
経営陣やスタッフ、国立盲学校の校長先生や社会福祉省の局長、店によく来て頂くお客様なども集まり朝5時半から説教とお経。
食事終了後は校長先生や担当官が視覚障害者スタッフと親子のように最近の話や日常生活を語って、スタッフらは笑ったり説教されたりの楽しいひと時を過ごしていました。
ここの政府は日本政府や一部日本人から色々言われていますが、日本政府の局長レベルがこれと同じことができるのだろうか。と。
少なくとも官僚レベルはこの国の方がよっぽど民主的なのではと感じることも多いです。といっても日本の局長レベルの人とお会いすることなどまずありませんし、どんな生活しているかも知りませんが。
もう1年になります。私が野ざらしの日本兵と思われる遺骨と遭遇したから。
遺骨は日本政府しか日本へ持ち帰ってはいけないという大原則のため、未だ日本に戻れない状況が続いています。ここの政府からは持ち出してもよいとなっているのですが。
他国の批判をする前に、まずは自国を見つめ正してもらいたいものです。

バルーチャン水力発電所と日本落日


ミャンマーの新聞でバルーチャン水力発電所の50周年記念という特集記事が2日続けて掲載されました。本日2010年4月1日が記念日とのこと。
バルーチャン水力発電所は日本の戦後賠償第1号の事業であり、1982年には第一発電所への円借款供与、1986年には第二発電所への円借款による能力増強工事を行うなど日本とミャンマーの関係を象徴する案件であり、建設コンサルティング会社と建設会社が組んでODAを実行する後のモデルになった第一号と言われる、日本にとっては象徴的な発電所です。
(1954年4月にビルマ政府と商業ベースでの契約書に調印。日本の建設業にとって戦後初となる海外工事。鹿島建設:http://www.kajima.co.jp/news/digest/dec_2006/kiseki/index-j.htm
そして2003年には施設・設備を改修するため日本の無償資金協力する予定が欧米の圧力により停止。以降、日本とミャンマーの関係が後退するようになったとも言われ、日本とミャンマーの関係には深く関わるバルーチャン発電所。
バルーチャン水力発電所の第三発電所には1年近くも前から中国人技術者が頻繁に立ち入りしており、すでに作業を行っているという話も聞きます。第三発電所は日本が調査を行ったにも関わらず・・・。
欧米は政治問題を挙げて色々発言していますが、一方でミャンマー国内への影響力を着々と強めており、そういった現場を頻繁に目撃、耳にします。
日本政府といえば、人道支援が・・・の一辺倒。他国のようにしたたかに戦略的に動いておられるのかわかりませんが、ミャンマー国内における日本の影響力低下が著しいのを肌で感じる日々です。
トングー・ロード―ビルマ賠償工事の五年間 (1963年) (岩波新書)を読みました。
日本人が命を懸けて作ったバルーチャン発電所も今や中国のバルーチャン発電所となろうとしています。
戦時中、日本軍上層部の一部は撤退寸前までメイミョ(ピンウールイン)に芸者を呼び寿司を食べていたと、元日本兵の方から聞きました。発電機が回り、エアコンが効いた事務所と自宅を往復し、ヤンゴンやネーピードだけを往復している方々が中心になって繰り出されているような日本の今の対ミャンマー戦略。
65年前の悪夢の再現にならぬよう、宜しくお願い致します。

遺骨収集


遺骨収集してきました。
遺骨が表面まで出てきて一部は流れ出している状況でしたのですべての遺骨収集はできませんでしたが可能な限りは収集してきました。
遺骨は日本大使館の方に一時保管されることになりました。
一日も早く日本の方へ帰国できるよう日本政府及び関係者の方々何卒宜しくお願い申し上げます。

これが残る村です。

日本兵かもしれない遺骨の放置


軍事施設内部ということで外国人が訪れることは少ない場所の僧院に用事があり先月訪ねました。そこの僧侶から、最近雨が降り土砂が削れて日本兵の遺体と思われる骨が出てきてるがどうしたらよいかと相談受けました。
この場所は戦時中イギリス軍と日本軍と激しい戦闘が行われた場所で、最近も不発弾や銃弾が見つかったようです。

ビルマの人はパゴダの近くに遺骨は埋めないとのことで、イギリス兵か日本兵の遺骨だろうとの話。戦時中は多くの日本兵が犠牲になったと前任の僧侶から聞いているそうで、かなりの確率で日本兵のものだろうとのことでした。
ちなみに国境地帯でもなく観光客も普通に訪ねることができる馴染みのある街の郊外。
ミャンマーに関わる人だけでなく戦後60数年経過した今でもこのような状況であること多くの人が知る必要があるように思います。

インパール作戦・補給なきコヒマの苦闘


日本で夏頃に放送されていた「インパール作戦・補給なきコヒマの苦闘~新潟県高田・陸軍歩兵第58連隊~」 が最近NHKプレミアムで放送されました。
番組取材でインド国境へ行った時の情景、当時の様子を語る村人達が思い浮かびます。
政府からの許認可が必要で行くのは難しい場所ではありますが、一人でも多くの日本人に訪れて頂きたい地です。

ビデオ/DVD「太平洋戦争(全10巻)」


ビデオ/DVD「太平洋戦争(全10巻)」は、太平洋戦争の事実を検証しながら、命をかけて戦った将兵たちの実情に迫る映像中です。
当時のニュース映像や新聞記事、国の運命を握る電文などの戦史資料に加えて、将兵の手記や手紙なども収録しています。
第8巻は「インパール作戦」
●ビルマでの日本軍統治●大東亜共栄圏●インパール作戦●大本営の作戦指導●連合軍のビルマ反抗作戦●日本軍陣地跡●日本軍の撤退●陸軍刑法●ミートキーナの戦い●拉孟日本軍守備隊の玉砕●騰越日本軍守備隊の玉砕 など
第15軍司令本部やインパールへ向かうインド国境地域など第8巻の一部は弊社が撮影コーディネートさせて頂きました。
お問い合わせ ユーキャン出版局 電話 03-3378-0770