国旗:日本 国旗:ミャンマー「ヤンゴンナウ」は1999年創業の日系旅行会社「サネイトラベル」がお届けするミャンマー総合情報サイト

  • 7年前、単身ミャンマーへ渡り、以来現地に身を置き激動の時代を生き抜く。企業・政府・マスコミ等との長年に渡るビジネスを通して培ったスキルや現地・日本の人脈をフルに活かした調査・進出コンサルティングは在ミャンマー日本人の中でも随一である。 Since 2001/1/1
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Contractor

武藤 太一(MUTOH TAICHI)/大成建設

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武藤 太一(MUTOH TAICHI)

昭和50年2月13日生まれ。1997年慶応義塾大学経済学部卒業後、大成建設株式会社へ入社。東北支店、本社、イスタンブール駐在、スリランカ駐在、国際大学(新潟県南魚沼市)修士課程を経て、2013年よりミャンマー駐在。大成建設ミャンマー連絡所所長、兼大成ミャンマー社(現地法人)社長に就任。2018年度はヤンゴン日本人会長も務める。

エンジニア人材確保の難しさと賃金レベル

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現在の人材事情についてお聞かせ下さい

    ミャンマーは、ある意味鎖国されていた時間が長かったため、我々のような外資系建設業がミャンマー国内で事業を展開する機会が限られていました。そのような中で、高度な技術や経験を持った技術者自体も、たくさん育っているとはいえず、そうした人材はシンガポールや中東などの諸外国で活躍してきたというのが現状です。暗記式の勉強方法が主となっているため、工科大学を卒業しているエンジニアといっても、卒業したての人材では即戦力としての活躍は期待できず、現場にでて一人前に働けるようになるまでは時間がかかります。

    このように、国内市場に人材が不足しているものですから、優秀なエンジニア人材の確保が容易ではなく、同業種内で人の取合いがおきたり、ジョブホップも盛んなため、賃金レベルも高くなる傾向にあります。我々としましても、人材確保のためにただ高額な給料を積めばよいという管理手法は取れないため、現在は、数少ない経験ある人材に加えて、フィリピン人等の第三国からのエンジニアを起用し、若手ミャンマー人に対して技術移転や教育という観点からも対応するようにしています。

    また、ミャンマーの特殊事情として、人件費だけではなく建設資材や特にヤンゴンにおける建設用の土地の価格が高いでことが特徴です。国内で生産している建設資材がほとんどないため、主にタイや中国、ベトナムからの輸入に頼っているのが大きな原因です。激しく長い雨期による工期への影響も考慮すると、近隣のタイ・ベトナムと比較しても、建設コストそのものが2-3割高くなってしまいます。

    日本国内では、管理集中購買制度がかなり充実しているので、資材をまとめて買い付けるスケールメリットを生かし、従来よりも安価な価格で購入することができる調達力に長けていますが、今のミャンマーでの市場規模ですと、そうした強みを発揮することは難しく、競合ライバルがひしめきあう中、受注に向けたコスト競争力に勝ち残るのが大変難しい状況です。

Bank

古川進 (furukawa susumu )/みずほ銀行

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古川 進 (Susumu Furukawa)

1969年埼玉県生まれ。1994年東京大学卒業後、同行に入行。シドニー支店、ソウル支店、産業調査部、直投支援部等を経て、ヤンゴン支店開業準備のため2015年1月よりミャンマー連邦共和国に赴任。2015年8月ヤンゴン支店開設時から業務企画課長に就任。


第一世代として0から作り上げてきた

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ミャンマー進出に際して苦労したことをお聞かせください

    私は2015年1月末にヤンゴン支店開設準備のために赴任し、8月に支店を開設したのですが、赴任当時、外資系銀行は全く進出しておらず、地場銀行の実務はグローバルスタンダードと大きくかけ離れたものでした。そういう状況の中でどうすれば安全に送金することが可能か、定期預金を作ることが可能か等を考え、ルールを一から作り、運営していくことに多くのエネルギーを費やしました。特に、ミャンマーは経済制裁を受けていたので、その中でいかに円滑に金融取引を進めていくかで苦労しました。その分、2016年10月に経済制裁が解除されたときは喜びが大きかったですね。


    また、人材採用にもかなり苦労しました。当時、銀行の事業規模自体が小さく、ミャンマーで銀行口座を開設している人は1割以下と言われていただけあって、銀行勤務経験者自体が少ない上、中央銀行から「地場銀行に勤務している人材の採用は不可」という旨のお達しが来まして、ますます経験者の採用は非常に難しいものとなりました。


    結果、立ち上げについては、ミャンマー人スタッフはほぼ全員未経験者でのスタートとなりました。皆、何も知らない分からない状況の中で、一から説明し、できるようになるまでまで繰り返す研修の日々が続きました。大変でしたが、皆、一生懸命前向きに取り組み、大きく成長してくれたので、開業以来、とても順調に業務ができており、今では本当に頼りにしています。


Factory

関根 敏和 (Sekine Toshikazu)/ACECOOK MYANMAR CO.,LTD.

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関根 敏和 (Sekine Toshikazu)

プロフィール:1974年大阪府生まれ。1997年近畿大学農学部農芸化学学科卒業。大学卒業後、地元大阪に本社のあるエースコックの商品を広めていきたいと志し、エースコックに入社。日本の本社にて商品開発(麺の開発)業務、生産技術管理業務、日本の自社工場(2工場)での品質管理業務を経て、工場建設業務に従事するために2015年よりミャンマー連邦共和国に赴任。2017年4月ヤンゴン工場完成時から工場長に就任。


エースコックの商品を広めたい

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エースコックで働き始めた経緯を教えていただけないでしょうか

    私自身が大阪府の出身ということもありまして、発祥の地が大阪府のエースコックの商品、具体的にはワンタンメンやわかめラーメンを幼い頃からよく食べていました。ラーメンが好きということもあり、今度は自分がお客様に対してエースコックの商品を広めていきたいと思い、入社を希望しました。


エースコックミャンマーに赴任された経緯を教えて下さい

    ミャンマーへ来る前は、日本のたつの市にある兵庫工場で品質管理担当者として、3年間勤務していました。また工場に赴任する前は、麺の開発(商品開発)や生産技術を管理する部署に所属していました。そこで培った知識や経験を活かして、ミャンマーでの工場立ち上げをしてきてほしいという会社の意向でこちらに赴任してきました。


NGO

中川善雄 (NAKAGAWA YOSHIO)/AAR Japan[難民を助ける会] ヤンゴン事務所 代表

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中川善雄 (NAKAGAWA YOSHIO)

プロフィール:1983年神奈川県生まれ。2005年立教大学物理学科卒業。大学生のころ海外ボランティアに参加したことがきっかけで国際協力の道を志す。日本赤十字社献血部門に5年弱勤務。その後、国際協力の現場で働きたいと思い、AAR Japanへ転職。タジキスタンで2年半、ミャンマーカレン州で1年の駐在を経て、現在はヤンゴンで駐在4年目。
特定非営利活動法人 難民を助ける会(AAR Japan)
ホームページ http://www.aarjapan.gr.jp/


1度きりの人生、後悔したくない

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中川様が、AARで働き始めた経緯を教えて頂けないでしょうか。

   大学生の時に何度か海外ボランティアへ参加して、途上国(フィリピン、マケドニア、モンゴル)に滞在する機会があり、海外の人々を身近に感じるようになりました。一方、マケドニアでは、滞在中に民族対立を感じる出来事もあり、世界には多くの人が知らない問題がたくさんあることを実感じ、自分にできることがあるなら何かしたい、国際協力を仕事にしたいと思うようになりました。 新卒で人道支援をする日本赤十字社へ入社することができましたが、国際協力の部署で働く機会はなく、悩み続けていました。日本赤十字社で働いて4年、当時27歳。いつ国際協力の部署へ異動できるかは分からず、移動しても数年後には別の部署へ異動があるという状況でした。国際協力を仕事として続けたい、一度きりの人生、後悔したくないと思い、転職を決意し、現在はAAR Japanで働き始めて、現在7年目になります。始めはタジキスタンに2年半駐在していました。後にミャンマー南部のカレン州で1年過ごし、現在はヤンゴンに駐在しています。


航空会社

2017年11月20日

鈴木康之 (Suzuki Yasuyuki)/全日本空輸株式会社 支店長

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鈴木康之 (Suzuki Yasuyuki)

1968年静岡県生まれ。1990年大学卒業後、飛行機が好きでANAに入社。空港旅客、営業、運航乗務員・客室乗務員管理、総務人事等の仕事を経て、2017年よりヤンゴン支店長として配属。常にお客様目線でありながら、社員に対しても1人1人を尊重し、最高の価値を生み出すANA’s Wayをスタッフが実践できるよう日々奮闘している。
ANA‘s wayとはANAのグループ行動方針:「あんしん、あったか、あかるく元気!」など。
ホームページ https://www.ana.co.jp/group/about-us/vision/(当該HP最下段参照)


未知の世界と出会える期待感

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―鈴木様がANAに入られた経緯を教えてください。

   もともと飛行機が好きで、国内・海外のいろいろなところへ仲間と出掛けていました。 初めて配属された福岡空港では、OJT初日夜に空港のボーディングブリッジの先端で最終便の飛行機が到着するのを待っていたのですが、夜の空港がすごくきれいなんですよね。 その時、本当に空港の現場に来て良かったと感じたことをとても覚えています。それだけ飛行機や空港が好きだったように思います。


―空港や海外って、未知の世界と出会える期待感で、わくわくしますよね。ヤンゴンへ来られた経緯もやはり海外への興味があってということでしょうか。

   ヤンゴンへは今年の4月に来たのですが、実は赴任としては今回が初めての海外なんです。 2012年からヤンゴン線を復便して以来、私は支店長として3代目になるのですが、1代目も2代目も海外が初めての支店長でした。海外で働きたいと思っていましたが、意外とドメスティックな会社だったりします(笑)。


―ミャンマーに初めて来たときの印象はどうでしたか?

   ミャンマーは敬虔な上座部仏教徒が多く、他人のためになることを積極的に行ったり、みなさんとても優しい国民性でもあるので、ほんわか楽しく仕事をさせて頂いています。 支店のスタッフと道端の屋台に挑戦したこともありますが、本当においしかったです。 できるだけ色々な料理を食べに行っていたのですが、4-5か月くらい経過したら、無性に日本料理が食べたくなることもたまにあって、自分は日本人だなぁと思いました(笑)。


―ミャンマーへ来る前に想像していたことと違った点はありますか

   実は英語力がそれ程高いわけではなく、ミャンマー語もできないので不安もありましたが、ミャンマーの方々の輪に入れて頂いて、みなさんから良くして頂くと、とても楽しくやりがいが出てきました。また、困った時に助けて頂いたりすると、ますますこの国のことが好きになっていきました。こちらでは語学力も自然と上がっていき、知らなかったフィールドの仕事もいろいろ経験できる機会にも恵まれています。 例えば、機内食ケータリング監査にヤンゴンではじめて立ち会った時の話ですが、ケータリング会社をしっかりチェックしようと厳しいスタンスで出掛けていったのですが、日本のキレイな厨房よりも更にキレイなレベルの厨房に驚きました。とにかく清潔な環境で機内食を作っていたので私自身が大変あんしんして、その後はみなさんへPRしたりしています。 日本で未経験だった仕事にもいろいろと関わることができ、とても勉強になっています。

パナソニックアジアパシフィック ミャンマー支店 副支店長 勝亦聖一さん

  2017年 9月   yangonow_admin

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―ミャンマーに来た経緯を教えていただけますか。

以前は国内営業を行っていたのですが、ある時から海外部門に異動になり、サウジアラビアでの駐在を経験しました。その後日本に戻ったのですが、再駐在を狙っていたところ、過去の経験が考慮され、ミャンマーに2013年10月に着任しました。


―では、次に、事業内容を教えていただけますか。

弊社では、家電と、家電以外のコンセント、スイッチ、照明器具など、工事を伴う設備系の商材を扱っています。私は家電以外の商材の担当をしております。元々私が来緬した当時は家電系と設備系2つの事務所で別々でやっていたのですが、せっかく狭いミャンマーで事業を行うのであれば、一緒にやろうとなりました。今では事務所もショールームも一緒です。


―ミャンマーで事業をしていく中で、大変だったことは何ですか。

まず、住宅家賃は高くて大変でした。採算が合わなくならないか心配でした。当時はオフィスビルがミャンマーには少なかったので、レンタルオフィスを借りていました。

あとは、外資系の企業はミャンマーでは小売りが出来ないので、現地の代理店さんを通じて輸入販売をしてもらっており、当社はマーケティングを支援しています。


―販売について、苦労した点はありますか。

日本では安全性、品質にこだわる場合が多いですが、ミャンマーにはそのような概念はまだあまりありません。そうすると、近隣国からの安い製品に負けてしまうんです。安全性や品質より、初期費用が安いものを選ばれることが、今のミャンマーではまだまだ多いです。


SAGA国際法律事務所 堤雄史さん

  2017年 8月   yangonow_admin

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―まずは、貴社の事業内容についてお聞かせください。

外資規制などの法令調査、契約書作成、M&A業務、紛争解決、現地法人又は支店の設立、投資法又は経済特区法の投資許可の取得、商標登録、通訳・翻訳業務などの事業を展開しております。

また、法律が日本の六法のように纏められた本やデータベースが存在しないので、 法令をカテゴリーごとに纏め、オリジナル(ミャンマー語版)の法令及び自社で英訳した法令を収録したミャンマー法令データベースの作成等も行っております。


―どのような経緯でミャンマーにご興味を持たれたのですか。

まず、弁護士を目指した経緯は、もともとはバックパッカーをしていて、大学の春休みにカンボジアとベトナムに行きました。当時は物乞いの子供たちがあふれていて、日本のような教育を受けられないことを知り、単純にかわいそうだなという思いを抱きました。

それと同時に、自分が社会的地位を持って声をかけるのと、フリーターとして声をかけるのでは影響力が違うと思い、それがきっかけで弁護士になることを考えるようになりました。

上記のような経緯で弁護士を目指したため、新興国でいずれ働きたいとの思いは弁護士になったときからありましたが、最初は新興国であればどこでもよく、特にミャンマーにこだわりはありませんでした。しかし、社会人として働いて1年ほどでミャンマーと関わる機会ができました。

丁度その時が2011年の夏で、ミャンマーが民政移管をした直後でした。

ミャンマー人やミャンマー情勢に詳しい方から、国が劇的に変わっていくという話を聞きまして、自分の人生の中でも、国の体制自体が劇的に変わるときに立ち会える機会は他に無いと思いミャンマーを選びました。


SAT JAPAN Road Service Co.,Ltd. 山田 敬さん

  2017年 7月   yangonow_admin

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―まずは、貴社の事業内容を教えてください。

弊社は、ロードサービス会社でございます。

24時間年中無休でサービスを提供させて頂いております。内容としましては、お客様のお車に自走不能、不具合が発生した場合、早急に現場へ向かい、対応可能であれば現場で対処致します。現場復帰が不可能な場合は、お客様のご指定の場所までお車をお運び致します。

―何名のスタッフで運営していますか。

日本人3名、ミャンマー人15名の合計18名です。

まだまだ小さい会社です。(笑)

―24時間対応されているとのことですが、どのように運営されているのですか。

1日を8時間ごとの3つに分けて、3交代制で運営しております。

部署自体もロードサービス、営業、経理、テレマーケティングの4つに分かれており、連携をとりながら、業務に当たっています。

―都市部からは少し離れたミンガラドンにオフィスを構えられていますが、それはなぜですか。

弊社はヤンゴンだけでなく、マンダレー、タウンジーを中心に、全国でサービスを展開しております。それゆえ、ミャンマーの北へと続く高速道路に近く、ヤンゴン市内エリアへも1時間程度でアクセス可能なミンガラドン地域にオフィスを構えているんです。

―利用されているお客様は、やはり日本人が多いですか。

いえいえ、それが違うんです。弊社のお客様の90%はミャンマー人の方々です。残りの10%は日本をはじめ、


Yusen Logistics (Myanmar) Co., Ltd. 野嶋保彦さん

  2017年 6月   yangonow_admin

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―――貴社のミャンマー事務所の開設はいつですか。

オペレーションが開始されたのは、2014年の4月からですので現在4年目に入ったところですね。


現在は、日本人スタッフ3名とミャンマー人スタッフ19名で運営しています。

――次に、事業内容を教えてください。

海上輸送、航空輸送、陸上輸送、倉庫業務、通関業務、クロスボーダー(国境間取引)の大きく6つです。

郵船ロジスティクスは、世界43ヵ国、500拠点以上の広いネットワークを持つ総合物流業社です。我々はそのミャンマー法人となります。

今申し上げた業務に加えて、ティラワに新しく構えましたロジスティクスセンターの業務開始に向け、目下準備を進めているところですね。


――その中で野嶋さんが特に力を入れている業務は何でしょうか。

弊社だけのためではありませんが、通関業の電子化が進むことを期待しています。 2016年11月に、日本の通関システムをベースにして作られた新たな電子通関システムのMACCS(Myanmar Automated Cargo Clearance System) が、ヤンゴン国際空港、ヤンゴン本庁、ヤンゴン本港、ティラワ港、ティラワ経済特別区内の税関へ導入されました。

このシステムは輸出入の申告、審査、関税納付、認可を含む一連の通関手続きを電子化し商業省の発給する輸出入ライセンスとの連結することが出来ます。このシステムがスピード感をもってタイ国境のミャワディ税関など全国展開することを期待しています。

しかしまだ始まったばかりですので、問題点を解決しながらの全国展開となりますが、 このミャンマーという国が物流分野で、先進国と肩を並べられるようになるため、システム面はグローバルスタンダードに早急に近づいて欲しいと思っています。 


第5回 一番館 店主 小丸かほりさん

  2014年 1月 23日   yangonow_admin

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――「一番館」はヤンゴンの日本料理店の老舗ですが、創業はいつですか。

1996年の5月にオープンしまして、今年の5月でちょうど18年になります。


――ということは、第一次ミャンマーブームのころですね。

ちょうど、ブームと同時にお店をオープンしました。今よりもちょっと小さなブームでしたね。 毎日のようにいろいろな会社のオープニングや事務所開きがあり、「あ、また違う方がお見えになった」という感じでした。

FMIセンターにほとんどの日本企業のオフィスがあったので、そこから駐在員の皆さんにランチを食べに来ていただき、ここでいろんな情報交換をされていましたね。 当時は、銀行さん大手8行、ゼネコンさん、商社さんはもちろんのこと、たくさんの方にお越しいただきました。 それが2000年ぐらいまで続いたでしょうか。ちょうど全日空の直行便が関西空港から飛んでいて、観光のお客様も多かったですね。


――店名の由来は?

単純に、ミャンマーの方にも覚えやすい名前ということで、ふっと「一番館」という名前が浮かびました。当時うちにいた中国系ミャンマー人のメイドさんに、 「これ言いやすいですか」と聞いたら、「言いやすい」と言うんです。それで、あまり考えるよりも「一番館」にしようか、と決めました。

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緑に囲まれた、「一番館」の外観。

――そもそも、ヤンゴンで料理店を始めようと思ったきっかけは?

夫の仕事の関係です(※注1)。1995年に阪神淡路大震災がありまして、夫が仕事で借りていた神戸のオフィスにダメージがあったもので。 その当時、ちょうど夫がミャンマーで仕事をやり始めていたのですが、ある会社の社長さんが「これからのミャンマーは良くなるよ」とおっしゃって、私たちをサポートしてくださったんです。

それに私が料理が好きで、社長の奥さんに自宅でちょっとお料理を食べていただいたら、「この家庭料理、ミャンマーで出したら受けるんじゃないか」と言われました。 「これから(日本料理は)絶対に必要になってくるから、ぜひやりなさい」ということで、サポートしていただき、私も「じゃあ、やらせてもらおうかな」ということでここ(お店の入るビル)を会社からお借りしたんです。

(開店した)初めは10年間くらいだと思っていたのが、もう10年ではきかなくて…。自分がやってみて初めて、「日本人がいないとだめだ」ということが分かったんです。 それでヤンゴンにいるかぎりは、とほとんど毎日のようにお店に出ています。ほとんどと、いうか毎日出ていますが…。

厨房の人たちに料理を教え、ホールの人たちにも「お客様は、このお店に入って来られた瞬間から日本を求めていられるんだから」と。 日本のマナーやおもてなしを教えて、いつか職種が変わっても、何か彼ら・彼女たちの役に立つだろうから、ということで教えていますね。

※注1)ご主人は、㈱ミャンマーユタニの小丸佳憲さん。


――開店までにはどんなご苦労がありましたか。

インフラですね。私もここまでひどいとは思っていなかったのですが、やりかけたので仕方ないという…。とにかく電気と水の確保でしたね。 水がなければ商売ができないもので、「これがだめなら次の方法で」と、当時のマネージャーと一緒に努力してやってきました。


――お店の内装は本格的な日本の民芸風ですが、資材の調達も大変だったのでは。

内装はオール・チーク(材)ですが極力、木を生かした造りにしたかったので、日本から写真とか本を持って来まして、大工さんに「こういう感じにしてください」とお願いしました。 でも彼らは(隣に)付いていないとだめなんですよ。時間が来るとすぐ帰ってしまったり。それでオープンが延びて、2月と言っていたのがもう3月、4月。 「もうこれ以上待てない」ということで、最後は付きっきりで5月に完成したんです。

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チーク材がふんだんに使われた、落ち着きある内装。

――当時のミャンマーはどんな状況でしたか?日系企業もどんどん増え、日本人がたくさん増えたと思いますが。

増えましたね。ところが日本食レストランはまだ少ないですから、食材を調達するのが大変でした。今日あっても、次の入荷がいつか分からない、ということで。 一番困ったのは、おしょうゆが手に入らなくて、タイまで買いに行ったことがあります。



第4回 ミャンマーDCR ジェネラルマネージャー  小林政彦さん

  2013年 12月 16日   yangonow_admin

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――貴社はいち早くミャンマーに進出されましたが、事務所開設はいつですか。小林さんは、当時からの赴任ですか。

弊社は、2008年の7月14日に設立しました。ただ、こちらのサーベイ(調査)自体は2006年からやっています。2年がかりで、なんとか設立にこぎつけたという感じです。

私は設立してからの赴任で、2008年の9月から正式に赴任しました。


――今でこそ設立の許可もスピードアップしていますが。

当時はなかなか整備もできていなくて、何のコネもない状況で来たので、いろいろ調べながらでした。 軍事政権だったのもありますし、大きなサイクロンの「ナルギス」が来ていたので政府の機能も止まったりして、なかなかスムーズにはいきませんでしたね。


――現在、ミャンマー人スタッフ、日本人スタッフは何名ですか。

ミャンマー人スタッフは約200名で、日本人は5名ですが、社長の赤畑は日本がメインですので、常駐者は4名です。


――貴社の事業内容を、簡単にご説明ください。

弊社のお客様は100%日系企業なので、日本の仕事をこちらで請け負ってプログラムを開発し、できたものを日本に送り返す、というのが主な仕事になります。

われわれのグループ会社は9社あるんですが、日本側の親会社であるDCRがその中心となって日本のお客様からお仕事をいただき、日本側が上流工程といわれる要件定義や基本設計作業を請け負い、 ミャンマー側が製造工程といわれるプログラム作成・テスト作業を実施するという役割となっています。


――貴社の、他の日系IT企業にない強みはなんですか。

2008年からやっていますので、ミャンマー国内である程度ブランド力がある、というのが一つの特長です。採用に関しても、特に広告を多く出してはいませんが、 毎年1000人以上の応募が来ますね。それが一つのブランド力なんじゃないかな、と思います。

もちろん(状況は)日々変化していくので、そのアドバンテージがいつまで続くかというのは分からないんですけど、 昔からやっていますのでミャンマー人の考え方とかミャンマーでのやり方、風習だとかはよく理解していると思っています。



第3回 下川ビルディング株式会社 専務 下川有司さん

  2013年 11月 25日   yangonow_admin

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――まず、貴社の事業内容を簡単にご説明ください。

下川ビルディングは、貸事務所を主体とした不動産のリース業を行っており、おもに東京の大田区を中心として、地域に密着した事業展開をしています。 大森に第1下川ビルを建てたのが昭和41年なので、創業してから50年近くになります。


――ミャンマーでホテル事業を展開された経緯を教えてください。

私たちの本業は貸しビル業ですが、一時期はカプセルホテルの営業もしていました。それでマンスリーではなくデイリーな商売に魅力を感じて、 今後はホテル業もやっていこう、ということで検討していたんですが、そのさ中に東日本大地震が起こりました。

もともと10年くらい前から中国など海外の視察はしていましたが、このタイミングでリスク分散として海外に不動産投資をしよう、となりました。

そして、社長と私の2人で中国、タイ、ベトナムなどアセアン諸国を観て回っている中で、ミャンマーに民主化という動きが出てきました。そこで視察に来てみたところ、非常に親日的で、なおかつまだ不動産の投資が活発に行われていない。 そういう見地から、ミャンマーに投資をすることになりました。そうして何回か足を運んでいた中で、たまたまこちらのランドオーナーとめぐり合い、何度か協議を重ねた結果、合意し、今日に至っています。

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ホテル・ガンゴウのロビー。

――ミャンマーに来られたときの印象はどうでしたか?

私たちはタイで飲食店を展開しているのですが、ミャンマーもタイと同じ仏教国なので似たような雰囲気なのかな、 と思っていました。でも初めて空港に降りてみると、バンコクと比べてぜんぜん都市化が進んでいないな、という印象でしたね。


――ホテルのオープンまでには、どんなご苦労がありましたか。

オーナーとの契約は、ホテルを建築している途中でしたんですが、建築がなかなか進まなくて、当初想定していた開業予定日から6ヶ月も遅れました。一番の苦労はやはりそこでしょうか。あとは、やっぱり考え方の相違がありましたね。そして、建物に関する不安が若干あります。 こちらの建物は日本の建築手法とだいぶ違うので、地震がないとは聞いていますが、やはり耐震の面で不安があります。


――「考え方の相違」とは、たとえばどんなことですか。

まず契約をするときに、言葉の違いもあるでしょうが、(法の整備上の問題で)契約自体の大枠が細分化されていないんですね。 大体の大枠は決めているんですが、一つひとつの情報にあいまいな部分が多いな、と思いました。



第2回 ミャンマーパークビューグループ代表 正田信子さん

  2013年 11月 11日   yangonow_admin

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――簡単なご経歴と、ミャンマーで事業を始めた経緯を教えてください。

日本で大学を卒業した後、西武百貨店に入社しました。当時はセゾングループでしたが、会社が多事業展開をしていて、インターコンチネンタル・ホテルを買収しました。 そこで新しいホテルをシンガポールに作ることになり、そのオープンのためにシンガポールに赴任していました。

ミャンマーにはシンガポール赴任中、96年の1月に初めて旅行で訪れました。その年は「ミャンマー観光年」ということで、全日空が日本から直行便を就航するということが決まっていて、ヤンゴンではそこら中でホテルが建設ラッシュでした。 そこで「旅行業をやれば、日本からのお客さんが多いのではないか」と思い、1996年5月にミャンマーに移住し旅行会社を作りました。

ミャンマーで会社を作るにあたっては、当時いろいろな外貨規制があり、個人の出資で会社を作るのが難しかったので、 まずシンガポールに会社を作ってその会社からミャンマーに投資する、という形で設立しました。


――御社の事業内容を、簡単にご説明ください。

ミャンマー国内の旅行手配、ホテルや国内線、車、ガイドをアレンジしています。それから2010年以降は、旅行業務をしている中で、ミャンマーに進出される日系企業の方が増え、不動産のご相談をよく受けるようになりました。そこで、 2011年に別会社として「パークビューサービス」を作りました。ここでは、日系企業のオフィスや日本人の方の住居の賃貸斡旋をしています。


――ミャンマーで事業をされる上でのご苦労は何でしょうか。

ミャンマーは、日本とは文化とか習慣がまったく違う国ですし、インフラも整っていないので、日本の常識が通用しません。そういった中で、ミャンマーの人たちと仕事をしていかなきゃいけない。 その辺りが一番大変でした。また、政情不安(※注1)や天災(※注2)もありましたし。

人でいうと、例えばここの人は、あまり「イエス・ノー」がはっきりしていなくて、何でも「はい、はい」と言います。例えば、こちらが「できますか?」と聞いて、相手が「はい」と答えても、 それは「できます」という意味じゃなくて、ぜんぜん理解していなくてもそう答えてしまったりすることがあります。

ここが日本語との違いで、「はい」は「できます」という意味じゃなく「聞きました」という意味。こちらは「できる」と期待していたのが実際はできていない、ということが多いですね。

注1)2007年、反政府デモを取材中の日本人ジャーナリストが治安部隊に射殺された。

注2)2008年、サイクロン「ナルギス」が上陸した。


――スタッフを使う上で、工夫している点はありますか。

私たちのお客様は日本の方たちなので、スタッフにはなるべく日本の習慣などを理解して仕事をするように、と教えています。そして逆に、日本のお客様にもミャンマー人のことを分かってもらわなきゃ、というのがありますね。


――ミャンマー人の美点はどういった所でしょうか。

とてもホスピタリティの気持ちがありますね。旅行でいらしたお客様の感想でも、一番多いのが「人が良かった」というものです。「パゴダが良かった」とか「遺跡が良かった」じゃなくて、ほとんどの方が「人が良かった」なんです。お客様も滞在中はそんなに多くのミャンマー人と接するわけではないけれど、 やはりミャンマーの人たちのような素朴な優しさ、ほほ笑みは、いま日本で忘れられているようなものなのではないでしょうか。

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オフィスでの仕事風景。



第1回 KDDIミャンマー 社長 増田正彦さん

  2013年 10月 30日   yangonow_admin

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――いつからヤンゴンに赴任されたのですか?

今年(2013年)1月の終わりに会社設立のライセンスを取り、日本人2人でスタートしました。どんどん人数を増やして、今はKDDI出向者の日本人が4人、 ミャンマー人が12人の計16人となりました。今後、ますます増やして、お客様に更に良いサービスを届けたいと思っています。


――簡単なご経歴と、ミャンマーに来られた経緯を教えてください。

ミャンマーに来る前は、香港(現地法人)に3年いました。それ以前の日本ではずっと、通信モジュールを利用したソリューションの業務を担当していました。問題解決や提案型の営業ですね。携帯電話のデータ通信機能だけをモジュール化した製品を独自で開発し、車の走行データや燃費情報などを収集し、 ナビと連携させて安全運転に役立てるとか。セキュリティのサービスで使って、無断進入時に警備員が駆けつけるとか。機械に通信機能を取り付けて世の中のしくみを変えるという仕事をやっていたんですが、それを中国でやりたくて「海外に行きたい」と言った時に送り出されたのが、香港です。

中国展開を3年間やり、また「ちょっと違うチャレンジをほかの国でやりたいな」と思ったときにミャンマー赴任の話があり、「お前が行け」ということになりました。それを言われたのが、(2012年)12月の終わりです。 その前の年の8月に一度、短期出張でミャンマーに来たことがあり、その際にとても良い国だなと思っていました。穏やかで、きれいで、人柄もみんないいし、その上、これからのビジネスがあると思いましたので、 「行くか?」と言われたときに「行きます」と即返事をし、即赴任した、というのが経緯です。


――ミャンマーの一番の魅力はどこでしょうか?

やっぱり人でしょうか。ただ、お金持ちには悪い人がいる、というのはよく聞きますけど(笑)。当社のメンバーもそうですが、若い人たちはすごくまじめだし、正直だし、勤勉だし、仲間を大事にする、そういうところがとても良いと思います。ただその反面、みんな「イエス」と言って(仕事を)引き受けちゃう。それで、なかなか仕事が進んでいないことがありますけどね。でも人の素の部分が非常に良いので、 わたしはミャンマー人が好きです。とても素朴で、おせっかいなくらいいろいろやってくれるじゃないですか。あれがたまらないですね(笑い)。

それが一人のおせっかいじゃなくて、例えばアパートメントで重い荷物を持ってスーツケースを2つくらい持ってエレベーターに来ると、まず警備員が運んでくれます。 それをエレベーターに乗せると、今度は一緒にエレベーターに乗っている作業員に「お前、手伝ってやれ」とか言って、また(その作業員が)自分が下りるときに荷物を部屋まで運んでくれる。あれはなかなかできないと思います。 そういうところが素直で素朴ですよね。


――それでは、ミャンマーの課題点は?

通信・インターネット、インフラがまだまだですね。インターネットがすごく遅い。日本人的にいうと、イライラするくらい遅い。ただ、みなさんは何か代替手段が無いのか?という所で悩み続けている。そういう所が、我々にとってビジネス・チャンスがあると思っています。あとは電気。 生活していて、停電をこんなに味わうと思っていなかったんですけど。生活も不便なるし、夜はいいけど朝に停電になると大変じゃないですか、カミさんなんかパニックですよ(笑)。そういう観点で言えば、停電と通信を合わせて改善できるのがビジネス・チャンスですよね。 でも、道路の渋滞は勘弁してほしいですよね。


――ヤンゴンにはコンピュータ大学を卒業したものの仕事がない、という若者も多いですが、貴社のスタッフは即戦力になっていますか。

いまのメンバーは、みんな即戦力ですね。卒業したばかりの新人が1人いますが、一から教えて育てる、という楽しみもあります。 即戦力(のスタッフ)は、スキルを鍛えてもっと生かして、という楽しみと両方あります。、新人はだいたい20代半ばくらいから上は35~36歳くらいのスタッフがいます。


――もともとITの知識もあり、日本語もできるスタッフを採用したのですか?

日本語が話せるスタッフは3名います。レンタル・オフィス(ビジネスセンター)ではITスキルはあまり必要でなく、日本的なおもてなしとか気遣いができる人が必要です。わたしが不思議だなと思うのは、 (ミャンマーの日本語クラスでは)日本語を教えるだけじゃなくて、日本の文化みたいなものも一緒に教えてくれているんじゃないかな、と思う。だから細かい気遣いができて、日本人に近い感じがしますね。お客様からの評判も上々です。

それと、別の仕事をバリバリやっていた、日本語を話せる女性スタッフが入社してきて、いまITを勉強しながら一生懸命やっていています。 いま営業をやらせているんですが、とてもハキハキしていて仕事の進め方がうまいので、これからITを勉強しても大丈夫ですね。


――ミャンマー人は勉強熱心で、語学習得能力も高いと言われますね。

社会人になるまでに日本語学習に触れている人が思いのほか多いですね。こちらが「ただいま」とか「さようなら」とミャンマー語で言って、向こうが「おはようございます」とか「お疲れ様でした」と、一生懸命日本語で話そうとしてくれます。そういう意味では面白いですよね。過去いろんな勉強をしているんだな、という感じがします。 そして、英語はみんなうまいですよね。(語学の)覚え方のコツがあるんでしょうね。