旅
ダウェー/南部回廊 [ 西垣代表 ]
サネイトラベル旅日記 〜ティンジャン 2016年のダウェーを行く〜
※文:西垣 充(J‐SAT代表)
ダウェーは、ヤンゴンから約600キロ南に位置する、タニンダーリ地方域の最大都市。植民地時代からの建物が多く残る風情のある街だ。その昔はTavoy(ダヴォイ)と呼ばれていた。
2005年まで内戦していたため、陸の孤島であった。その影響で、独自の雰囲気や文化が残る。多く話される言語はタボイ語で、インレー湖に暮らすインダー族と同じ言語体系だという。
今回私たちは、ダウェーの状況視察を兼ねた南部経済回廊のミャンマー〜タイ国境陸路縦断のため、ティンジャン(4月の水祭り)連休を利用して2泊3日の旅へ出かけることにした。メンバーは、私とインターン生の遠藤さん、弊社ミャンマー人スタッフのイーさんの3人。
ヤンゴン〜ダウェー間は空路で約1時間。エアラインはエイペックスを利用。 ダウェー空港に到着すると、チャーター車に乗り込む。ダウェーのダウンタウンで腹ごしらえをした後、初日の目的地である早速ダウェー経済特区(SEZ)へ向かった。
ダウェー空港
SEZはダウェー市内から19kmほどの距離にあり、車で30分、空港からも30分ほどで行くことができる。
空港からダウンタウンへの道はきれいに舗装されていた
名物、ダウェーモヒンガ。
スープの出汁は川魚ではなく魚介類から。
海鮮具材がたっぷりでおいしい!
ダウェーSEZの開発状況
ダウェーSEZは、タイ、カンボジア、ベトナムを横断する南部経済回廊(アジアハイウェイ1号線)の西側入口として、開発が進められている。
Myandawei Industrial Estate Company Limited (MIE)ウェブサイトより
ダウェー経済特区の開発は、すごい勢いで進んでいた。
数年前に来た時はそれほど開発の進展を実感しなかったが、以前はなかった簡易的な港ができていたし、タイのセメント工場や中国の製油工場もあった。SEZの敷地が地ならし整地されていたことにも驚いた(一部、反対住民が立ち退かない場所もある)し、道も格段に広くなったと感じた。
SEZの入口
道路が数年前に比べて広く、
整備されている
世界でも、今これだけの変化を感じる場所はなかなかないだろう。ぜひ今のうちに、一度見ておく価値はあると思う。
同じ場所(SEZの中心地点?)で撮影してみた。
2014年に撮影
2016年に撮影
ダウェー港。タイの建設業界最大手イタリアンタイが管理
ダウェー観光の目玉、マウンマガンビーチ
マウンマガン村のビーチは、高い透明度を誇る穏やかな海が特徴で、植民地時代には避暑地として人気のあった場所。新しいリゾートホテルの建築が相次いでいる、注目のスポットだ。
ここマウンマガン村では近年、漁業が非常に盛り上がっているという。
ビーチはダウェー中心部から西に12kmほどの場所にある
昔は陸の孤島であったダウェーだが、通行が禁じられていた5年前に陸続きの道が開放され、現在ではヤンゴンからの道も整備された。また、近年はタイ側との道路が整備され、物流にも大きな変化が生まれている。 これにより、アンダマン海で豊富に穫れる水産品を目当てに、ヤンゴンから、さらに国境を越えてタイ側からの買い付け業者が急増。需要の拡大に伴い、ダウェー沿岸では漁師へと転職する人が続出しているそうだ。
一方で、ダウェーにはタイからの物資がどんどん流入し、街が凄まじい速さで様変わりしている。例えば、ダウェーではビールといえばタイの「シンハ」。ヤンゴンから「ミャンマービール」を運ぶよりも、タイ側の方が距離的に近いのです。生鮮食品や日用品もタイ製ばかりだった。
村に停まっていた買い付け用の冷蔵トラック
漁業が盛んな土地だから、当然、海鮮がとても旨い。鮮度抜群で、車エビやサバ等、買って帰ることができないのを心底残念に思ったが、どこの食堂に行っても、いくらでも安くて美味しい海鮮料理を味わうことができた。
日本政府からの大型支援が噂され注目を浴びたダウェー。その後、その壮大な計画などから最近はあまり注目されなくなったダウェーですが、久しぶりに訪問すると、報道されていなかっただけで、変わっている部分が多く見られました。タイからダウェーまで道路が未完成であってもこの至近距離。 深海港ができる物流インパクトや豊富な魚介類に綺麗なビーチ。工業関連から観光・レジャー産業まで、道路が完成すれば幅広い分野で経済インパクトを与える場所であるのは間違いなく、話題にならなくとも定期的に定点観測は必要と感じました。
これもタニンダーリ名物の炒め麺、カチカイ。本場は海鮮たっぷり!
いざ、南部回廊へ
2日目は、南部回廊として整備が進む道路を走り、ミャンマー・タイ国境へ。そこからさらに、タイのカンチャナブリまで行くことにした。 ダウェーから国境の町キキまでは、車で約3時間半とのこと。6年前は12時間かかっていた道が、今では4分の1の時間で行けるようになっていた。
バスターミナルには、キキ行きのバス運行する会社も。つい数年前まで反政府勢力により外国人の通行は厳しく制限されていたことを思いだすと、その変化の速さに驚きだ。 カンチャナブリとダウエイ深海港をつなぐ新道路はまだ未完成なため、途中までは旧道路で向かう。 途中から新道路を使い、すすむ。新道路は、イタルタイが昨年まで工事が進めていたこともあり、コンクリートは全線で引かれていないものの、道幅は予想以上に広く、整備されおり、時速80kmぐらいのスピードで進むことができる。
鉱物を採取している場所もみられる。中国企業が行っているとの運転手の説明。
道路はタニンダーリ川に沿って造られている。
川では作業をする人の姿があった。ここでは砂金が穫れるらしい。
イタリアン・タイの工場も。
途中3カ所ゲートがあった。そこにはカレン解放同盟の旗と今もすぐに撃てそうな銃をもった兵士が警備しており、写真は絶対取らないようにとの運転手から注意があった。今も複雑な政治情勢が垣間見れ、今後の道路開発はどうなるのかと不安に感じる部分もある。
さらに山奥をひたすら突き進み、カレン民族解放軍による通行料金徴収ポイントを越えると、ミャンマー側のイミグレがあるキキに到着した。
すると思わぬ事態が。ミャンマー人が陸路でタイへ抜けるには、ビザが必要だということが判明。空路ではビザは必要ないため、陸路でも大丈夫だと思い込んでいた。一緒に旅をしていた弊社ミャンマースタッフは、1ウィークパスをとることになった。このビザはカンチャナブリを離れることはできないため、バンコクには行けず、またこの場所から入国しなければならないビザになる。
当初の予定では、ここからバンコクに向かいヤンゴンに戻る予定だったが、ミャンマー人スタッフだけおいてバンコクには行けないので、カンチャナブリを観光することに。
ダウェーからタイまでの道を見てみたい!という、旅の一番の目的は達成できた。
キキのイミグレで手続きを待つ人々
タイに入国!
知る人ぞ知る、泰緬鉄道ツアー
泰緬鉄道は第二次世界大戦中、旧日本軍がタイ〜ミャンマー間に建設した鉄道だ。旧日本軍は、その完成を急ぐあまり、捕虜や地域住民に過酷な労働を強制し、完成までに大量の犠牲者を出し続けた。
ミャンマー側はモン州タンビュザヤを起点として造られたが、戦後は廃線となった一方で、ミャンマーとの国境にあたるタイのカンチャナブリ県では、当時の鉄道を一部保存し、実際に列車の運行をしている区間がある。他にも、映画の舞台にもなったクウェー川鉄橋や、強制労働により亡くなった連合軍の共同墓地、博物館などが点在しており、外国人にも人気の観光スポットとなっている。
ここを訪れた日、タイの水掛祭連休「ソクラン」を翌日に控えていたため、タイ人観光客もたくさんいた。
私たちはまず、カンチャナブリ駅の近くにある博物館に向かった。博物館は「Thailand- Burma Railway Centre」も兼ねており、ここでヒストリーツアーに参加できるのだ。その場で申し込むと、1グループにつき1人の英語ガイドがつき、3人で9,700バーツだった。
私たちについたガイドは、レイル・ウェイ・センターの設立から関わるマネージャーだった。彼女曰く、普段自分がガイドをすることはないらしい。だがこの日は何かの縁で、私たちについてくれることになったのだ。泰緬鉄道を、ミャンマー人、タイ人、日本人のグループで巡るという状況にも、深く考えさせられるものがあった。
泰緬鉄道のクウェー川鉄橋。現在は実際に歩いて対岸まで渡ることができる。(カンチャナブリ)
連合軍捕虜の墓
泰緬国境まで続く線路
彼女が私たちのガイド。
タム・ クラセー桟道橋も線路を歩くことが可能だ
カンチャナブリ駅から国境方面に向かう列車に乗り込む。ハイライトはタム・ クラセー桟道橋で、川沿いにかかる木造の陸橋から臨む景色はスリリングながら美しかった。
このメジャーな線路とは別に、泰緬鉄道にはもう1本の線路がある。「ヘルファイアパス」だ。ヘルファイアパスは、泰緬鉄道建設で最大の難所「地獄の切り倒し」であった場所。旧日本軍は裏ルートとして、線路をジャングルのなかにひっぱっていたという。
一般観光客も見学可能になっており、観光の起点となる場所には博物館があった。15年ほど前、元捕虜の父親を持つオーストラリア人によって造られたそうだ。建設費はオーストラリアも支援したらしい。
現在もわずかながら当時の線路と枕木が残されており、当時の強制労働の残酷さを痛感することができる。崖の岩には削った跡も見られる。道具が足りなくなり、手で掘らせたこともあるとか。ここで10何万人もの人が亡くなったのだ。
カンチャナブリは、バンコクから3時間半で日帰り観光が可能だ。日本人はぜひ訪れておきたいスポットの一つだろう。
この地を訪問した後、「死の鉄路 泰緬鉄道~ビルマ労務者の記録」を読んでみた。
翻訳者の田辺さんがあとがきで書いておられる。「日本人では20万人もの人が戦病死した地であるだけに、体験された方が戦記を書かれている本は数多くあります。しかし、それらは日本人の側の声であって、ビルマ側のものはありません。この本は数少ないビルマ人が書いた本であるが、黒白をつけるものではなく、ビルマ人がそう見ていた。と受け取ってもらいたい」
中身は日本人には耳の痛い部分もありますが、当時の状況を想像してみると、たしかにその通りだと感じる部分は多々ある。当地でリサーチを行い、多くのビルマ人戦争体験者から話を聞いてきた経験からは、しっくりくる内容だった。
戦争は切り取ったところによって状況は変わると思う。
日本ではよくアウンサン将軍は日本軍が育て・・・という話が出る。ちょうどこの本の前書きには、1946年12月18日タンビューザヤ軍墓地落成記念式典でのアウンサン将軍の演説があります。「4年前ぐらい前からわが国は戦火に見舞われた。戦火とともに日本の軍国主義たち、それに悪しきファシズムがやってきた」からはじまる。
ミャンマーは日本がイギリスからの独立支援をしたので・・・と日本ではよく語られる部分だが、ミャンマーの人からその通り!と言われたことはほとんどなかった。また、日本でよく言われる、イギリス時代よりは日本時代がマシだった、というのも言われたことも、実はない。本の中では「日本兵と仲良くしている、気にいられているビルマ人は優遇されて、その他は別の扱い、イギリス時代の階級社会と何ら変わらない」と語られている。同様なことは私も何度も聞いた。
当時の日本兵と今の日本企業戦士とがダブる。
ミャンマーに駐在している日本の人は大きく二つに分かれると思う。ミャンマー人が好きな人とそうでない人。現地に溶け込み地元の料理を食べる人もいたら、食事が合わない、汚い、電気がない、指示が守れないと文句ばかりいう人。
戦時中もそうだったような気がする。
溶け込んだ日本人には地元の人はサポート。逆に溶け込まない人は・・・。
戦況が不利になり撤退になれば、仲良くしていた人を地元の人は助けますし、そうでない人は想像ができる。そう考えれば、生き残って生還された方は、仲良くしていた人が多い、だから「ビルキチ」みたいな言葉が生まれたのではないのかな、と。
ミャンマーの人は日本人が戦時中行ったことを知った上で親日の人が多くおられます。日本人も実際日本人がこのビルマの地でどういうことを行ったのか、それを直視しその上で今のミャンマーとつきあっていくことが大切だと感じる。
ミャンマーの人のことを理解することがミャンマーでのビジネスの成功のカギ。
そのためには、戦時中のことから理解していくことが大切なように感じる。