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  • 7年前、単身ミャンマーへ渡り、以来現地に身を置き激動の時代を生き抜く。企業・政府・マスコミ等との長年に渡るビジネスを通して培ったスキルや現地・日本の人脈をフルに活かした調査・進出コンサルティングは在ミャンマー日本人の中でも随一である。 Since 2001/1/1
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ミャンマーで働くことを選んだ本当の理由 前編

by 西垣 充


 ミャンマーに来る前から現在に至るまで、最もよく聞かれる質問があります。

 「なぜミャンマーで働いているのですか?」

 それはヤンゴンで生活する日本人なら私に限らずほとんどの方が感じられていると思います。私もあまりにいつも聞かれすべて説明するのは大変なので、一番簡単でそれ以上話が続かなくなるよう以下のように答えるようにしていました。

 「学生時代にミャンマーに旅行で来て気に入り、私が会社をおこすならここしかないと思いやって来ました。」

 しかし最近、私の会社で働く社員も知る必要があるだろうと感じ、また今後聞かれても「ホームページに詳しく書いていますので」と答えられるのではと、思い切ってホームページで書いてみようと思いたちました。

 話は少し遡り大学生時代、私の兄がカナダにいたこともあり、1年間大学を休学してカナダに語学留学に行きました。留学といっても2ヶ月ぐらいはアラスカへのヒッチハイクの旅行ったり、何かと英語が話せるようになればいいと勝手に理由付けをして、教科書での勉強はあまりせず諸外国から来る人達と遊んでいました。私が留学した先はカナダアルバータ州エドモントン。冬には零下30℃を下回る場所で当時は日本人も少なく、何故か授業料が安かったのでこの地を選びました。当時アルバータ州は移民しやすいとのことで、カナダの中でも特に移民を希望する人々が多く、中国、韓国、ラオス、ソマリア、ポーランド、ギニア、チェコ、ロシア、ペルー等、世界各国からの人々が同じクラスメイトでした。学生もいましたが、母国の事情がよくないので移民し第二の人生を送ろうという人が多く、そんな人達やその仲間達と生活するうち、1年間のカナダの生活が終わる頃には、日本人は世界でも稀な非常に恵まれた民族だ、日本人として生まれてきた役割を果たさねばならないと感じていました。そのためにはまず自分がどこでも生きていけるようなプロにならなければならないと思い、就職先は経営コンサルティングと決め、運良く大手経営コンサルティング会社の(株)船井総合研究所に内定が決まりました。

 (余談まで、同じくいつも「奥さんはミャンマー人ですか?」「宗教的理由でミャンマーですか?」と聞かれます。どちらも関係ありませんで、今の家内と初めて知り合ったのはこの留学の時で、ちなみに家内は日本人です。)

 卒業後働く会社が決まり、カナダですっかり旅行の味をしめてしまった私は旅に出ようと思い起ちました。行き先はインド。理由はアジア人としてまずアジアを見よう、そしてバックパッカーならインドが面白いと噂を聞いていたからとそれだけの理由です。卒論を一気に書き上げ9月から12月までインドに行こうと考えていました。ところがちょうどこの時期、インドでペストが大流行していました。とりあえず行ってみないと分からないと思いバンコクへ飛び発ちました。

 バンコクで情報収集した結果1ヶ月程待った方がいいと言われどうしようと考えていたところ、ベトナムが面白いという話を聞きました。当時、まだ今のようなお洒落なベトナムというイメージは全くなく、ベトナム戦争のベトナムというイメージしかありませんでした。ベトナムに行くのは面白そうと思い、ベトナムに行こうと決めたのですが、バンコクで取得するベトナムビザ代がかなり高く、カンボジアで取得すれば安くでできると旅行者の人達から言われ、そしたらカンボジア、ベトナム、ラオスと一周してその間にペストは治まるだろうと考えカンボジアに行くことにしました。

 当時のカンボジアはまだ治安は安定しておらず、タイから陸路で行くことは禁じられていましたので、飛行機でプノンペンに入りました。確か空港には軍用機が数機あってえらいとこに来たなあと感じたことを覚えています。

 何の知識もなくカンボジア、ベトナムに行ったところ、非常に興味深く、ハノイに辿り着いた時にはもう12月になっていました。旅行中には何故か現地で働く日本人達にも多く知り合い、それらの人からミャンマーがこれから面白い、ミャンマーを見ておきなさいと多くの人からアドバイスを受けました。その時はまだミャンマーの場所すらはっきりわからない状態だったのですが、あまり知られてない地に行くことに味をしめてしまった私は、ハノイから一旦日本に帰国してミャンマーに行くことにしました。

 翌1月、ヤンゴンに到着しました。バンコクでビザを取得したのですが、その時アメリカに移住したミャンマー人と仲良くなり、その後同じフライトでヤンゴンに到着、滞在中はずっとお世話になりました。結局ビザも延長して2ヶ月弱ミャンマーに滞在しました。

 その時のミャンマーに対する印象は、「何とかしないと行けない」というものでした。何故か自分勝手にそのように感じたのです。ベトナムの印象は皆やる気がありすぐ発展するだろう、カンボジアは援助がたくさん入るだろう、しかしミャンマーは、、、なぜなのだろう、何が原因なのだろうとそんなことを考えながら旅行していたのを覚えています。そして私がミャンマーで何かしなければ、、、これまた勝手に決め込み帰国しました。

    大学を卒業して(株)船井総合研究所で働き始め中身の濃い充実した生活を送っていました。しかし、95年7月、アウンサンスーチ女史が開放されるというニュースを聞き、これは早くミャンマーに行かねば、となぜかあせり始めました。そんな中、普段はほとんど見ない新聞の求人欄にミャンマー駐在員募集との項目に目が留まりました。今から考えても不思議なのですが、偶然の偶然が重なり、旅行会社で現地オペレーター会社、(株)サイトラベルサービスのヤンゴン駐在員としてヤンゴンにやってくることになりました。人生の流れには逆らってはならないとの先輩からのアドバイスもあり、ヤンゴンにやってくるのが私の人生の流れと感じ決意しました。船井会長が「人生に起こる事柄はすべて必要必然である」とよく話されていましたが、まさにその通りだと痛感致します。

中編に続く・・・
(C) 西垣 充