今も多くの場所が外国人の渡航が制限されているチンドウィン河流域。
タウンダットやシッタン、パウンビンなどインパール作戦に参加された方や遺族の方々が訪れたい場所として、弊社にもこれまで何度も問い合わせがあり、何度かご手配させて頂きました。
とはいえ、弊社スタッフは何度か行っておりましたが私自身はまだそれら地に行ったことはありませんでした。
今回ナガ訪問のためのホマリン行きのミャンマー航空の相次ぐキャンセルは、チンドウィン河を通って行きなさい!との暗示と勝手に理解し英霊にお祈りしてきました。
ナガに行ってみて、ナガの文化よりも60年前になぜ日本軍はこんなところまで来ていたのかなあ。と正直そちらの印象の方が強かったです。
(写真はタウンダット)
Category: 戦争関連
大熊幾世さん その3
インパールへの道
15軍司令部
終わらない戦争
マウンテン大佐
93歳という年齢にも関わらず、今でも頻繁に国内旅行に出かけられるマウンテン大佐。ビルマ独立義勇軍のメンバーで、戦後日本の遺骨収集にも尽力を尽くした功労者。
「アウンサン将軍らとともに日本に行く予定だったが、ちょうどヤンゴンにいなく一緒に行けなかった」とつい最近の出来事のようにお話されます。
先日も市内を案内してあげよう。と、ヤンゴンに残る戦時中の建物など説明して頂きました。
友人を紹介するということで大佐と一緒にBIA本部があったという今に住む友人を訪ねましたが、すでに他界されていました。友人の息子と戦時中の話をしていましたが、通訳していた弊社スタッフも、学校で習った人物が次々出てきて皆それらが知り合いで、つい最近の出来事のように話すというすごい会話に驚いていました。
戦時中ある程度の地位にあった方は90歳以上になっており、なかなかこういった話を直接お聞きする機会もなくなってきました。今のうちに色々話を聞いておかねば!
終戦記念日
今日、8月15日は終戦記念日。ミャンマーにいると戦争のことが身近に感じられ、様々考えさせられます。
最近ミャンマーでは歴史の授業で、あの戦争をどんなふうに教えているかを取材し、教科書にどのように記載されているのかを見ていき、その検証として、当時を知るお年寄りにインタビューしていきました。
現在ミャンマーでは第二次大戦の日本軍絡みについては、8年生と10年生の歴史の時間に教えています。8年生では3ページほどに渡って記されております。(ちなみに日本ではこれらは1行だとか!)数年前まではもっと詳細に、また日本軍についての悪評も記載されていたようですが、現在は悪評については一部残っていますがほとんど姿を消しています。
『戦争というものはそういったものなので、事実は事実として伝え、それらは過去のものとして未来のためになるよう教えていくべきである』と役人から教師、お年寄りなど多くの方々が話されていました。
ちなみに、植民地支配をしていたイギリスに対しても植民地時代に街を整備し国の基礎を作ったのはイギリスというイメージが強く、多くの人がそれを信じているように感じます。今でもほとんどのミャンマーの人々が最も憧れをもつ国はイギリスです。次にアジアで成功した日本になります。日本かイギリス、どちらに行きたいかと問えば、日本語がペラペラのうちのスタッフでもイギリスと答えます。
大げさかもしれませんが、これら未来を重点に置いたこの国の人々の戦争に対する考え方が世界の人々が実践できれば世界平和に繋がるのではと、この国の人々を見習う必要があるのではと強く感じます。
大熊さんと鈴木さん
Ma San Myint (まさみさん)
今も深く心に焼き付いているミャンマー人女性Ma San Myintさん79歳。(続けて読むとまさみさんと日本女性の名前のようになります。)2年程前、ある番組取材がきっかけでモールミャインで知り合いました。戦時中彼女が16歳の時日本兵と恋に落ち結婚。現在3人の子供がいます。3人目の子供がまだお腹の中にいる時戦況が悪化し、夫は3人目の子の名前をつけ、必ず戻るといいタイへ向かったそうです。
その後夫は戻られず、彼女の母親はまさみさんが20歳のときに子供と一緒に2階から転落、子供は助かり母親は帰らぬ人となり、医者である父親とともに子供を育てあげました。取材中、彼女はあらゆる質問にも涙一つなく毅然と答えられ、夫は現在まだ帰ってこないが子供3人がいるので幸せです。「そういう時代だったから」と夫や日本に対しては一切不平不満を話されませんでした。
取材が終わり取材班が出て行った後ポツリをこう話されまた。「辛い人生だった‥」そして溜まっていたものが噴出したように号泣されました。