チンドウィン河


今も多くの場所が外国人の渡航が制限されているチンドウィン河流域。
タウンダットやシッタン、パウンビンなどインパール作戦に参加された方や遺族の方々が訪れたい場所として、弊社にもこれまで何度も問い合わせがあり、何度かご手配させて頂きました。
とはいえ、弊社スタッフは何度か行っておりましたが私自身はまだそれら地に行ったことはありませんでした。
今回ナガ訪問のためのホマリン行きのミャンマー航空の相次ぐキャンセルは、チンドウィン河を通って行きなさい!との暗示と勝手に理解し英霊にお祈りしてきました。
ナガに行ってみて、ナガの文化よりも60年前になぜ日本軍はこんなところまで来ていたのかなあ。と正直そちらの印象の方が強かったです。
(写真はタウンダット)

大熊幾世さん その3


取材中は絶対ありえないような偶然がよく起きます。
大熊さんの取材の時の出来事。タウングーで戦前の写真館「ニッコウ」を探しているところを撮影中。当時の写真を地元の人に見せながら聞いていたところ、偶然通りかかった人が「この写真私の家にあります」と話してかけてきました。何と全く同じ写真をお持ちだったのです。話を聞けば、タウングーの街は戦火が激しく多きが燃えてしまい、彼女の家も燃えてしまったそうですが、母親がその写真だけは戦火の中持ち出し大切に保管してきたそうです。
60年経って再会したもはや偶然とは言えない場面でした。
(写真提供:島村浩さん)

インパールへの道


インド国境でのインパール作戦での取材では予定していたいくつかの村は時間的な理由から取材できませんでした。
ただこの話を知人に話したところ、「それは、取材を受けいている霊魂がこの村はまだ入らない方いい、もしくは、それなりの僧侶が来てお経をあげてから入るように」ということでないかと話していました。
そうえいば思い当たる節があり、取材中は山岳部で凍えるような寒さの中、地元の人がありえないというほど長時間晴れわたったり、行けなかった村はまさしくイギリス軍と死闘を演じた村であったりしました。

15軍司令部


インパール作戦の中心となった15軍司令部として使われていた建物です。日本軍が作る前はイギリス軍が司令部として使用していました。
現在は将校学校として使用されており、戦時中とそれほど変わらない状態で今も現役で使用されています。
ピンウールイン(メイミョ)にありますが、軍の施設の内部にありますので一般者方が見ることは難しいかもしれません。

終わらない戦争


サンペイさんが番組「絵手紙と郵便兵」で呟いた一言。「俺にとってはまだ戦争は終わっていないんだ。」
日本ですと毎日が忙しいですし、戦争の体験をした話というのは自らの意思で求めないと入らなくなっていますが、ここミャンマーで生活すると生活の一部として戦争関連を感じます。
サンペイさんも近年病に倒れ体調不良で、戦争体験者の高齢化が進んでいます。後世にそして日本で生活する人々にこれらを伝えていかねばと強く感じます。

マウンテン大佐


93歳という年齢にも関わらず、今でも頻繁に国内旅行に出かけられるマウンテン大佐。ビルマ独立義勇軍のメンバーで、戦後日本の遺骨収集にも尽力を尽くした功労者。
「アウンサン将軍らとともに日本に行く予定だったが、ちょうどヤンゴンにいなく一緒に行けなかった」とつい最近の出来事のようにお話されます。
先日も市内を案内してあげよう。と、ヤンゴンに残る戦時中の建物など説明して頂きました。
友人を紹介するということで大佐と一緒にBIA本部があったという今に住む友人を訪ねましたが、すでに他界されていました。友人の息子と戦時中の話をしていましたが、通訳していた弊社スタッフも、学校で習った人物が次々出てきて皆それらが知り合いで、つい最近の出来事のように話すというすごい会話に驚いていました。
戦時中ある程度の地位にあった方は90歳以上になっており、なかなかこういった話を直接お聞きする機会もなくなってきました。今のうちに色々話を聞いておかねば!

終戦記念日

今日、8月15日は終戦記念日。ミャンマーにいると戦争のことが身近に感じられ、様々考えさせられます。
最近ミャンマーでは歴史の授業で、あの戦争をどんなふうに教えているかを取材し、教科書にどのように記載されているのかを見ていき、その検証として、当時を知るお年寄りにインタビューしていきました。
現在ミャンマーでは第二次大戦の日本軍絡みについては、8年生と10年生の歴史の時間に教えています。8年生では3ページほどに渡って記されております。(ちなみに日本ではこれらは1行だとか!)数年前まではもっと詳細に、また日本軍についての悪評も記載されていたようですが、現在は悪評については一部残っていますがほとんど姿を消しています。
『戦争というものはそういったものなので、事実は事実として伝え、それらは過去のものとして未来のためになるよう教えていくべきである』と役人から教師、お年寄りなど多くの方々が話されていました。
ちなみに、植民地支配をしていたイギリスに対しても植民地時代に街を整備し国の基礎を作ったのはイギリスというイメージが強く、多くの人がそれを信じているように感じます。今でもほとんどのミャンマーの人々が最も憧れをもつ国はイギリスです。次にアジアで成功した日本になります。日本かイギリス、どちらに行きたいかと問えば、日本語がペラペラのうちのスタッフでもイギリスと答えます。
大げさかもしれませんが、これら未来を重点に置いたこの国の人々の戦争に対する考え方が世界の人々が実践できれば世界平和に繋がるのではと、この国の人々を見習う必要があるのではと強く感じます。

大熊さんと鈴木さん


戦前ともにビルマで生活されていた二人。お互い1914年大正3年生まれと同い年。大熊さんは戦争の混乱の中、日本へ帰国。鈴木さんは戦時中もビルマに残り、今現在も元気にヤンゴンで生活されています。
この時が初めてのお二人でしたが、戦前のビルマでの生活に話が盛り上がっていました。
(写真提供:島村 浩さん)

Ma San Myint (まさみさん)

今も深く心に焼き付いているミャンマー人女性Ma San Myintさん79歳。(続けて読むとまさみさんと日本女性の名前のようになります。)2年程前、ある番組取材がきっかけでモールミャインで知り合いました。戦時中彼女が16歳の時日本兵と恋に落ち結婚。現在3人の子供がいます。3人目の子供がまだお腹の中にいる時戦況が悪化し、夫は3人目の子の名前をつけ、必ず戻るといいタイへ向かったそうです。
その後夫は戻られず、彼女の母親はまさみさんが20歳のときに子供と一緒に2階から転落、子供は助かり母親は帰らぬ人となり、医者である父親とともに子供を育てあげました。取材中、彼女はあらゆる質問にも涙一つなく毅然と答えられ、夫は現在まだ帰ってこないが子供3人がいるので幸せです。「そういう時代だったから」と夫や日本に対しては一切不平不満を話されませんでした。
取材が終わり取材班が出て行った後ポツリをこう話されまた。「辛い人生だった‥」そして溜まっていたものが噴出したように号泣されました。

戦前にあった日本人経営の写真館


戦前ビルマ国内にあった日本の写真館を探したことがあります。メモした紙を忘れてしまい正確な数字は忘れてしまいましたが、確かヤンゴンに5件、マンダレーに3件、タウングーに1件、ピィに2件、パテインに1件、モールミャインに2件ぐらいだったような、とにかく結構たくさんあるその数字に驚いたのを覚えています。
戦前ビルマ国内では日本の写真館は品質が高いと評判だったそうで人気があったそうです。今おられる多くの老人に聞いてみましたが皆そのように話されています。
(写真提供:島村 浩さん 戦前タウングーで大熊さんが経営されていたニッコウ写真館)