ついに遺骨収集の法律が施行されたので、写真とともに20年間を振り返ってみました。

太平洋戦争で亡くなった戦没者の遺骨収集を加速する法律が、今月1日、ついに施行されました。

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この方は40年以上前に行われた第一回日本政府による遺骨収集の実現に、当時ビルマ政府ホテル観光省の役人として尽力をつくされた故マウンテン大佐です。彼がいなければ当時遺骨収集は実現しなかったという話を聞きました。彼にヤンゴンに残される戦時中の建物や当時どのように利用されていたか、案内してもらいました。その一つが今のチミダイン国立盲学校で、それが縁でGENKY視覚障害者支援につながっていきます。彼に合わなければGENKYはありません。といことはミャンマーで視覚障害者マッサージとう職業が定着していないということになります。ほんとに不思議ですねー。

ミャンマーで生活していると、特に番組制作のリサーチなど20年近く行っていると、遺骨には度々遭遇していました。ですので、ロケハンやリサーチのときには日本の線香をいつも持参。家に戻るときは家に入る前に塩を振っていました。
実は・・・以前の事務所にもどなたかおられましたので、事務所入口には盛り塩をしていました(笑)。私が日本などに出張する時に決まって事務所内で不思議な現象が起きていたので、不在中を守っていてくれてるのだと勝手に思っていました。いつも助けて守って頂いています。ありがとうございます。といっても、私は全く霊感ありませんので見えません。

遺骨は勝手に日本に戻すことはできず、日本大使館に遺骨とともに遺骨があるだろうリストを作成し預かって頂いていました。
そんな中、ついに先月日本に戻ることができるようになりました。

この法案が通ったのを受け、ようやく帰国が叶うのと同時に、70年以上前にこの地で何が行われたのか、という歴史がこれから日本でニュースや番組になり人々の注目を浴びる。学校で教えられている社会の教科書では「インパール作戦では」と一言にまとめられてしまっている、その文脈の中の事実が再び注目を浴びる。日本の支援、企業進出が本格化する今こそ、それが大切な気がします。

ということで、残っている写真をざっとまとめようとしたら、多くの写真が紛失(涙)残っているものだけ、コメントつけてご紹介いたします。

みなさん、ついに帰国開始です!

1パンタ村墓

こちらインド国境タム郊外にあるパンタ村。ここからインパール向かう場所で、40年前、第一回遺骨収集団が来られた時に案内した人が見つかり、色々話しを聞きました。

2パンタ村墓への道

インド側で負傷した日本人用の野戦病院があったが、重症で安全な場所まで行けない負傷兵が多かったこともあり、隣に墓地を併設していたそうです。そんなこともあり、掘ればいくらでも遺骨が出てきたそうですが、途中でスコップが人々の方に勝手に動き始めてしまい危険になり、途中で断念したそうです。私が訪ねたのは2005年。この場所は当時インド側が政情不安でしたので時折銃声が聞こえる現場でした。ミャンマー兵に周囲を銃で護衛してもらいながら訪問しましたので、その第一回遺骨収集以来初めて訪ねた日本人でした。

3シュエチン日本軍がいた場所

ここはシュエチン村。

  5シュエチン日本兵の遺骨

シュエチン村にも遺骨がいくつかありました。この時は遺骨持ち帰れませんでした。

6コンタン日本兵の穴

こちらコンタン村

7コオタン日本時代

コンタン村には日本の軍票を作る造幣局があったと地元の老人に聞きました。

8アッロエ村2

ここも思い出に残るアッロエ村。ここでは当時、日本軍とイギリス軍が24時間ぶっ通しで戦った激戦の地と聞きました。
このときは番組リサーチで行ったのですが、その後番組ロケでも訪問予定だったのですが、理解不能な不思議なことが次々起こり、結局取材できない地となりました。当時は、多くの人が戦死した地なので、きちんと僧侶をお連れしてからの方がいいのでは、と取材班に理解して頂き諦めた覚えがあります。

10クレ高地からイラワジ川

この写真は2009年イラワジ川の対岸にある有名なクレ高地。

11クレ村の82歳

当時を知るドウ・ケンウー。ここも多くの慰霊に日本人の方が来られていたが最近はほとんど来なくなり、慰霊碑も荒れ果ててきていると嘆いていました。あれから7年もたち、当時を知る人ももういないと思いますので、忘れ去られていくのでしょうか。

12タウンレド銃撃戦の跡

ミャンマー中部の村、タウンレド村。結局、番組にはなりませんでしたが、この地で襲撃を受けたが生き残った旧日本兵の方が訪問したいということで、この地を探しました。これは銃痕の後。

13ドウケンウー

2009年に訪問したタウンレド。この女性は戦時中、この地に日本軍が駐留していた時に生まれた女性で、名前は駐留していた日本人がつけた。と村人皆が知っている地元では有名な女性でした。村では、これまで多くの遺骨が出てきたそうですが、輪廻転生を信じるミャンマーの仏教徒にとっては骨は大切なものではないので、すべて捨ててしまったそうです。

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ここはメッティーラの郊外。軍施設の中ということで、一般の人は入りにくい場所でしたが、今も銃痕の後が残る建物がありました。

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その前には、今も遺骨が流れ出て着ていました。

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この遺骨は集め日本大使館に預かって頂きました。(2009年)

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メッティーラのゴルフ場にある今は使われていない井戸。ここに自ら命を絶った日本兵がおられる。と案内して頂きました。

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 19タンニョン

戦時中はマンダレー王宮が日本軍の司令部になっており、その中で日本語も教えていました。その卒業証書。とご本人。いろいろ当時の話を聞きました。

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最後は、2005年に訪問した、ピィのサンペイさん。戦時中日本軍の通訳をし、そして戦後はODAで作られたマツダや日野の工場で働く日本人の方々の様々なお世話や慰霊碑建立に尽力をされました。彼が涙を流しながら当時の日本軍の悲惨な現実を話は壮絶でした。番組はこちら(http://www.ctv.co.jp/chu/lady/2005/0421/

他にもいろいろあるのですが、写真が見つかりません。また見つかったら記録用としても、記載してみたいと思います。